ありがとう 藤巻幸大/藤巻幸夫/故 藤巻幸大と親交が深かった方々からお寄せいただいたメッセージをご紹介いたします。

近江 誠精巧株式会社 社長

藤巻さんとの出会いは、約20年前のイタリア・ミラノのホテル。
当時からカリスマバイヤーとして活躍されていましたが、とても気さくで優しく、心の温かい人でした。
その後、大変お世話になっている永森達昌氏(アイベックス代表取締役)との接点においても藤巻さんとの親交は続き、藤巻さんが「すみだブランド」の委員になられたこともあり、さらに身近にアドバイスをいただけるようになりました。
藤巻さんは常に「ものづくりをしている職人やメーカーがとても大事」とのお考えから、「すみだ地域ブランドIKIJI」を立ち上げる際にも後押しをしていただき、藤巻百貨店をオープンされた時も、IKIJIのポロシャツを採用してくださいました。
藤巻さんは「精巧は創業64年、世界の名立たる有名ブランドの商品を作っているカットソーメーカーであり、その高い技術と品質でファクトリーブランドIKIJIをスタートさせています」と嬉しい紹介を様々なところでして頂いておりました。
また、ご多忙にもかかわらずいつも気さくに会って下さり、その場で私の仕事にとって貴重と思われる方に電話をかけ、藤巻さんの携帯電話で「初めまして」とお互いの自己紹介。
その人脈の広さと藤巻さんの人柄に改めて感動し、紹介してくださる皆様も人として素晴らしい方ばかりで、今もお付き合いをさせて頂いております。
藤巻さんのサポートに恥じぬように、IKIJIを世界のブランドにしていくことが藤巻さんへの恩返しであると思っております。
藤巻さんは永遠に不滅であります!

大西 洋株式会社三越伊勢丹ホールディングス 代表取締役社長

彼と過ごした日々を振り返り、メッセージを送らせていただきます。

一言で申し上げると、彼ほど毎日「エネルギッシュに動き回った人間」は いないということ。休みなく日本中を駆け巡り、日本の良いものを探求し続けました。
人が大好きで、だからこそ人から好かれ、彼の力で多くの“絆”が築きあげられたのではないでしょうか。

業態にとらわれることなく、常に新しさを求め、自ら築き上げた絆を通じて日本の新しい力、新しい価値を、皆で協業しながら次々と実現してくれました。
残された私たちができることは、彼の志を継いでいくこと。

彼の声は聴くことが出来なくなってしまったけれども、彼の遺志は、いつまでも色あせることなく、私たちの心の中に生き続けることでしょう。

大峽宏造大峽製鞄株式会社 専務

藤巻幸大さんとはディスカバージャパンの高橋編集長を通じて知り合いました。
高橋編集長から僕の携帯に電話が入り、以下のように始まった次第。

高橋「大峽さん、今隣に藤巻さんが居て話をしたいそうですが代わっていいですか?」
大峽「別にかまいませんが、、、、」
藤巻「大峽さんですか?藤巻です、是非お会いしたいと思っていました。。今ですね、日本はモノ創りでは最高なのにどうして・・・・・・」、、約30分程度会話が続きましたがその内、25分は藤巻さんがしゃべっていたと思います、そのくらいモノに対する熱情が深かった。

その後間髪を入れず、スタッフの方々が来社。
オリジナル商品を創って藤巻百貨店で発売後、まもなく完売、追加注文と、なにやら凄いスピードで全てが展開して行き今後の方向を楽しみにしていました。
昨年の忘年会で一番先にステージに呼ばれ例の元気トークに圧倒されましたがあの後すぐ病に侵されたとは、未だ信じられず、彼のだみ声が頭からはなれません。
合掌

鎌田由美子JR東日本研究開発センターフィロンティアサービス研究所副所長 / 藤巻さんとはエキナカecute開発時の2002年からの仲

他界されて早2カ月、携帯から今も「鎌ちゃん、今ね○○さんといるんだけど」という声が聞こえるようです。
福助の社長になられたばかりの藤巻さんを訪ねたのは2002年。初めてお会いして「駅を変えたい」、そんな話の取っ掛かりに「面白いね。いいねいいね。やろうよ。」
まだエキナカという言葉もなく、取引先に伺う度に断られ続けていた当初、一貫して「面白いよ。できるよ。みんな喜ぶよ」と、話すたびに元気もらいました。

その後仕事にプライベートにと、多くのことを教えていただき、気が付けば10年以上。「鎌ちゃん、どう思う」、何か仕事を始める時の長話はいつも日曜の午前中。いろいろなパーティ会場でも会うたびに誰かを紹介してくれ、そのご縁からまた仕事につながりました。

10年くらい前から地方をもっと元気にできないかも共通の話題。「現場がなくちゃ地方は変わらない、それには人から」と、多くの地方に一緒に行っていただきJR東日本の「地域再発見プロジェクト」でも最強の応援団でした。
「何かを変えていく」「日本を元気にしたい」といういつもの言葉。出会った人をすぐにポジティブな藤巻ペースに巻き込んだキャラクター。永遠に一緒にいてくれるような気持で何かやろうとするとすぐ顔が浮かびます。志継いでいきます!

川島蓉子ifs未来研究所所長 / 藤巻さんとは、二十年来の友人

それは20年以上前に遡る。「僕、デパートを圧倒的に変えたいんです!」--堰を切ったかのように、思いあふれるコメントが飛び出す。「この勢いは何だろう?」。インタビュアーとして強く惹かれた。伊勢丹で「解放区」を立ち上げる前のことだ。藤巻さんは「熱くるしいくらい、熱い男」だった。

その姿勢は、さまざまな職種を経て、政治家になっても、ブレるところがなかった。実は、繊細で恥ずかしがり屋の少年のような一面も備えていたのだが、強く熱い面が立って見えた。過剰過ぎる熱意に対して、ささやかな誤解や憶測をされたに違いないが、そんなことを物ともせず、ただただ前に向って進もうとした。大胆さと繊細さ、豪快さと緻密さ、自分でも手に負えないほど相反するものを備えた過剰さに、時に疲弊し、でもへこたれずに驀進した。「よお、蓉子ちゃん!」温かい呼びかけが、今も耳に残る。

齊藤能史松徳硝子株式会社 専務取締役 / クリエイティブディレクター

藤巻さんとは、藤巻百貨店ビールグラスコレクションの開発をご縁に出会いました。初めて、お会いした時の印象は、強烈なバイタリティと、とにかく声がデカイ!(笑)でした。そのパワーに圧倒されたのを今も鮮明に覚えています。

特に印象に残っているのが、完成した6種のビールグラスを持参して、茨城のネストビールさんを訪問した時のことです。ひとつづつ、様々なテイストのクラフトビールとグラスの相性を実際に飲みながら検証しました。終始テンション高く、とにかく楽しく、美味しく、素敵な時間を過ごしました。たらふくビールを飲みました。道中、ここでは書けないような(笑)多くのお話が出来たことも、楽しかったなー。

その後も、ご出演されたテレビ番組で弊社のことをご紹介頂いたりと、とにかく色々と気にかけて頂き、とてもありがたかったです。
また、藤巻さんがお電話されている時に、突然、「ちょっと待ってください。今、面白い男と一緒にいるんですよ!ご紹介しますからっ!代わりますっ!」と電話を代わる様に即され、とまどいつつも、初めまして!とご挨拶させて頂いた所、某有名百貨店の社長さんだったということがありまして、流石に、焦りました…。
そういや、テレビ取材のお話を頂いた時も「今ね!収録中で!齊藤さんの所の話、しておいたからっ!あとは、よろしくっ!」という感じで…。とにかく、そのバイタリティに圧倒され続けました。
また突然「おー!元気!?」なんて、ご連絡を頂ける様な気が、今もしています。

佐藤美加rooms プロデューサー / 藤巻さんは20年来のお友達で私の良き理解者でした

いつも賑やかな藤巻さん。
話し出すと止まらず、歩くと沢山の人に声を掛けられていました。
親しい皆さんが必ず経験するであろう、「ちょっと電話代わるね」攻撃。
知らない方と突然電話を代わられて、「初めまして・・」とお話しをさせられる。
最初は戸惑い、少々迷惑だなぁと思っていましたが、その電話攻撃で繋がった方の多いこと多いこと。
藤巻さんの電話攻撃で知り合った方々は、私の宝となっています。

そして、出不精な私のことを、色々な方にお話ししてくださって広報してくれていた藤巻さん。
「藤巻さんから聞いています」と、どれだけの人に言われたことか。
労を惜しまず、損得を考えず、人を好きになる藤巻さん。
どんな場所でも話題にあがる方でした。
藤巻さんがよく言っていた言葉で「地場産業を活性化したいんだ」という言葉。
私の故郷が福島だったこともあり、震災後に共に地場産業を盛り上げようと、藤巻さんが既に始めていた藤巻百貨店の中にroomsのコーナーをいただきました。

roomsから地場産業が発展するようにと期待し、そうなることを望んでくださっていた藤巻さん。
その藤巻さんの意思を大事にし、私なりに頑張っていこうと思っています。

志方 剛イグレック・シカタ株式会社 代表取締役

私が藤巻さん(以下マッキー)と出会って5年近くになる。最初の印象はテレビで見たままだ!だった。マッキーはいつも自然体で、ごうちゃん、ごうちゃん!と夜中でもお構いなしに電話をくれた。特に参議院議員になった後は(それまでもそうだが)更に時間に追われているはずなのに、電話に出られなくても後で必ず折り返してくれた。一体この人はいつ寝ているんだろう?

互いにファッションがライフワークの一つになっていた事もあり、会えばいつもお互いのファッションや持ち物をチェックした。
「藤巻さん、これ可愛いですね!」
「そうだろ、ごうちゃん。実はこれさぁ日本のどこどこの職人さんが作ってるんだけど、なかなかその地方から出れないんだよ。だからオレが全国に広めようと思ってさ。これ、絶対いけるでしょ!そんでさ、作ってる人達が素朴でまたいいんだよ!」

マッキーは日本の文化、それも地方でそれぞれ完結してしまっている素晴らしい文化や、技術また商品を全国に広めようと東奔西走していた。
こんな素晴らしいものを埋もれさせておくのは勿体ないし、全国に広がって行けば、日本を元気に出来るんだ、は彼の口癖だった。
モノが好きで、人が大好きだったマッキー。

「いつか二人でバッグやろうよ、オレたちだったらカッコいいのできんだろ!」
その夢が果たされる事は、今はもうない。
会社での別れ際、いつもエレベーター前まで見送り最後まで話をする。去年の年末、マッキーとの最後の別れ際、彼はエレベーターの中から言った。

「ごうちゃん、頑張ろうな!解ってんな、絆だぞ!絆!」今でも耳から離れないマッキーの最後の言葉、私にとって何にも換えがたい大切な言葉となって今も胸に残っている。

清水新六時計企画室コスタンテ 社長

20数年前の伊勢丹時代に遡ります。
「BPQC」のオリジナルウォッチ。
私が企画製造者 で 藤巻さんがデザイン決定者 という 糸で結ばれていたことは本当に 「つなげる力」 を実感させてくれました。

誰も手掛けていなかった ホンモノの有田焼き文字盤を搭載した 藤原和博プロデュース 「arita」。
鼎談の席上、藤巻さんは手にとって愛おしいくらい眺めて大変感動してくれました。

超党派でクールジャパンを進める中で 是非とも日本を代表する有田焼を海外へアピールしたいから改めて提案して欲しいと熱意を示していただきました。

鼎談途中で経産省のクールジャパン担当者に衝動的に電話で推挙しようと動いてくれたバイタリティには圧倒されました。
2016年は 有田での磁器誕生 から400年となります。
あの時 藤巻さんがイメージしたであろう 「藤巻×arita ウォッチ」。
私のこれからの明確な 「夢」 と 「目標」 となりました。

藤巻さんが描いていた 「日本のモノづくり」 の熱意にできる限り応え、実現したいと思っています。

谷尻 誠Suppose design office 建築家 / 藤巻さんとはWEB上の藤巻百貨店を設計させて頂いたのがご縁です

はじめて藤巻さんに会う日、僕は打合せ場所を間違えて30分遅れました。
すると藤巻さんは一言目に「いいねー、若者はそうじゃないとー」なんて言いながら、僕の気持ちを一瞬にして明るくして下さったことがありました。
藤巻さんがいると一瞬で空気が澄む感じです。
笑う門には福来たると言いますが、藤巻さんのいらっしゃるところには、笑いが常にあり、まわりの人にエネルギーを配り続けるような方だった事を思い出します。
素晴らしい仲間に囲まれることの豊かさ、そんな当たり前だけど、とても難しいことを藤巻さんから教えて頂いたように思います。
ぼくもそんな笑顔を導ける、素敵な大人になりたいものです。

辻口博啓パティスリー「モンサンクレール」オーナーシェフ

藤巻さんを知ったのは今から10年ほど前で、「すごい人がいるから」と知人から紹介されたのがきっかけです。

その時から、事あるごとに声をかけていただき、とても人情味のある方だと感じていました。その場を一瞬にして和やかにして、藤巻さんに任せておけば大丈夫だという安心感がありました。

そんな藤巻さんがいなくなり、とてもさみしく感じています。
もっともっといろいろ教えていただきたかった。
残念で仕方ありません。今でも、大好きだったブルーをいつも身に着けていた藤巻さんを思い出します。

中野香織エッセイスト・明治大学特任教授 / 藤巻さんとは数年来の友人

大学にゲスト講義に来ていただいた日の印象は強烈でした。
他学部の学生も大勢たむろする学内のカフェで講義前に打ち合わせしていたのですが、藤巻さんは、ごく自然に初対面の学生たちを話の渦に巻き込んでしまい、気がつけば私たちのテーブル周辺がフラッシュモブ状態で盛り上がっていました。
相手が誰であれ垣根を低くしてたちまちのうちに心を通わせる藤巻流人心掌握術!

講義のあとは、参議院に繰り上げ当選したのでこれから議員バッジをとりに行かねばと言って、学生たちの大拍手の中、嵐のように駆けていきました。
興奮と熱気にあふれたお祭りのような一日でした。
プライベートでもしょっちゅう食事会や飲み会、パーティーにお誘いいただきました。
同席すれば必ず大げさに引き立ててくださって、チャーミングな多くの方々にご紹介いただきました。
藤巻さんのおかげでどれだけ人生の幅が広がったことか。
無尽蔵のエネルギーと善意を放射して周囲を照らす、太陽みたいな存在でした。

大きな声でしゃべりまくっているのでどこにいても目立っていましたが、内実はむしろシャイで繊細、おそろしく人情に厚くて細やかな気配りをする方でした。
ちょっとした失敗をして仲間から見放されていたある共通の知人に対し、「ねえねえカオリさん、あいつに電話して元気出せって励ましてやろうよ」と言っていきなり電話をかけ、受話器を渡された日のことも忘れません。電話越しの知人の涙声も。
人と人とをつないで輪を大きくしていくことに天才的な力量を発揮した方ですが、輪からこぼれ落ちそうになる人に対しても決して見捨てたりはせず、最後まで味方として寄り添っていました。

そんなホンモノの優しさを備えた男だったからこそ、かくも多くの人に愛され、慕われ、信頼されたのでしょう。
藤巻百貨店では藤巻セレクトによるたくさんの優れものと出会えますが、その背景ひとつひとつに、藤巻さんと作り手とのドラマがあるはずです。
まだ秘められたままのそんな話をぜひ知りたいですし、それを通してまたあちこちで新たなつながりの輪ができる予感がします。
人と人とのスリリングなつながりの連鎖、それこそが藤巻さんが私たちに残してくれた、くめども尽きぬ大きな遺産ではないでしょうか。

二宮眞一株式会社二宮五郎商店 代表

一番最初にお目にかかったのは、8年くらい前でしょうか。
私の友人の雑誌社の方と直前アポで来社されました。

お名前と顔は知っていましたが、ずいぶんとイカツイ方だなーと、、、、、。
とにかく、真っ黒けで、、、、、足元に目をやると、うすべったい革のサンダルに素足でおいでになりました。
ブルーのストライプのシャツを着て、トレードマークのメガネと坊主頭とガラガラ声と、まあ、第一印象で私の脳裏に強くスタンプしていった方は、あの方以外にいませんでしたね。そのブルーのシャツがやけに爽やかで、その時の陽気や空気も良く覚えています。
そんなサンダルで来社されたのは、初めての方ですねーというと、そんな下町のこわもて風の藤巻さんが、一瞬顔をあからめて、とてもチャーミングでした。

自分はストライプやチェックのシャツが好きで、シャツのショップを作るとか、懇意のデザイナーさんのお話とか、とにかく自分のことをよく知っておいてくれと、言わんばかりに、お話ししてくださいました。
その日は、特に私に何をしてくれとか依頼することもなく、さあっと帰って行かれました。

来てから、帰るまで一人で一方的にしゃべって帰って行かれましたが、この方とはいつか、お仕事をするだろうなあと直感いたしました。
人を愛し、大切にする方で、これからも大勢の人に守られて、大飛躍をする方だと思っておりました。とても残念です。
目を閉じるとブルーのストライプのシャツを着て、微笑んでいる姿があたたかく、懐かしいです。

藤原和博元公立中学校校長、プロデュ―サー

増上寺で行なわれた告別式に私はピンクのYシャツを着てうかがいました。
妻には非常識と言われましたが、初めて藤巻幸大さんと青山のお店で対談し意気投合したのが嬉しくて記念に買ったCRUMでした。
袖にブルーの和柄の生地が縫い込んであって、そのネオジャパネスクな雰囲気がとても気に入って毎週のように着ていたものです。

その後、私が諏訪の時計企画室コスタンテの清水新六社長と開発している腕時計「japan」シリーズを気に入ってくださり、藤巻百貨店で文字盤が白磁の「arita」を売ることになりました。
その際、清水社長が、藤巻さんが伊勢丹で腕時計をOEM開発していた時代のSEIKO側の担当者であったことが判明し、不思議な縁に参議院会館で大笑いしたのを想い出します。

腕時計の次に開発していた「大人のランドセルEMU」も藤巻さん期待の逸品でした。だから私はその試作品を背負ってお焼香もさせていただいたのです。
幸大さんは、その名の通りの大きな幸せを人々に振りまきながら何人分もの人生を走り抜いていかれたのだと思います。
その笑顔はしっかり私たちの心の中に刻み込まれています。ありがとうございました!

増田精一郎M-Watch Studio 代表

私が藤巻さんと初めてお会いしたのは、青山のカフェでした。
藤巻さんが師と仰ぐ作家の島地勝彦さんからのご紹介で、藤巻さんが島地さんの腕時計を気に入り、お創りさせていただきました。

初対面の印象は、とてもエネルギッシュで気さくな方。
「時計職人と聞いていたからもっと年配で分厚いメガネをしている人を想像していた」と言いながらオリジナル時計を見た途端、子供のように喜んですぐ腕につけられました。

その場で携帯電話を手に取り、島地さん、㈱三越伊勢丹の大西社長に電話をして喜びの気持ちを伝えるとともに、私も電話でお話することに。
「僕は思ったらすぐにその人と話がしたいし、紹介したくなるんですよ」
そして突然思いついたように、「そうだ、今度ぜひ海をイメージした時計を創ってください」と言われました。
全ては増田さんに任せると。初対面なのにいつの間にか私も藤巻さんの“渦”に巻き込まれていました。

その後、参議院議員になった藤巻さん。電話や手紙、メールでの打ち合わせをして、昨年の夏に海をイメージした時計を議院会館でお渡ししました。
国会議事堂の中を案内していただき、昼食をご一緒しました。
「増田さん、僕は国会に来てなぜ今の日本に元気がないのかが分かりましたよ」
「みんな暗い顔をして会議をしている。こんな雰囲気で良い案やアイデアは生まれない」
「これからの日本、made in JAPANをもっと広めたい。そのためには日本国内だけでなくグローバルに日本の感性やデザインの良さを世界に伝えるべきだ」と。
マシンガントーク全開で、同席されていた秘書の方も笑いっぱなし。
「藤巻さんの部屋からは、いつもお客さんが訪れて笑い声と明るい声が聞こえてくる。一体どんなお話しをされているのですか?」と隣の部屋の参議院秘書の方々からも言われたようです。
「楽しんだり、ワクワクしながら仕事しなきゃ面白くならないよ」
「僕は、同じ党以外の議員の方とも、よく食事をする」
きっと藤巻さんの人としての魅力が派閥を超えたんだと思います。

海のイメージの時計をお渡ししたとき、満面の笑みをうかべて
「いま、ちょっと頑張っているから自分へのご褒美の時計。これを腕につけて時間を見るたびに僕の大好きな海を思い浮かべる。楽しくなるなぁー、ホント最高だよ!」
時計を創っていて本当に良かったと思う瞬間でした。

大胆さの中に周りの方々を気遣う繊細さ。
多用な日々を過ごされている藤巻さんでしたが、メールはその日に必ず返信がありました。でもあるとき夜中の2時か3時に返信がきて、いつ休んでいるのかなと思うことも。
見えないところでも人の何倍も努力をされていた方だと思います。

本やテレビで拝見する姿とは別に、“生”の藤巻さんにお会いできたこと、また時計を喜んで腕につけていただいたことは私にとって感謝の気持ちでいっぱいです。
昨年末、電話で次のオリジナル時計のお話したのが最後になりました。もっといろんな人々を巻き込んで欲しかった。
藤巻さんが大切にしていた『信念』という言葉。
私もその信念を継承していきたい。何かお役にたてることがあればぜひご協力したい。

藤巻さんを取り巻くすべての事象に感謝の気持ちを込めて。
ありがとうございました。

松久信幸Nobu Restaurants, Nobu Hotels, Matsuhisa Restaurants Owner / 世界へ和食を紹介するシェフとして藤巻さんと共感する心を持つ友人のひとり

藤巻幸大様
日本の良品を世界へ紹介し、その素晴らしさを伝えたいという思いを形にした「藤巻百貨店」をオープンさせたと聞き、同じ心を持つシェフとして、藤巻さんと熱く夢を語った事が昨日の事の様です。僕は情熱を持つ人が大好きです。
藤巻さんと最初にお会いした時に、その情熱をすぐ感じ取りました。

その情熱をまだまだ「日本の素晴らしさの発信」に傾けて頂きたかったのですが、本当に残念でなりません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
藤巻さんが作り上げてきたその日本に対する思い、フィロソフィー同じ日本人として、私も世界へ発信して行きます。

矢島タケシデザイナー

1989パリ
「藤巻、タケシさんの荷物持つ!」僕の親友(女性)が藤巻さんの上司、当事藤巻さんは伊勢丹からバーニーズに出向のアシスタントバイヤーで二人はパリに来ていた、僕はその頃パリ在住でバーニーズオリジナルのデザイナーだった、これが藤巻さんとの初めての出会い濃い付き合いがはじまりだった。
三人でご飯に行ったり蚤の市に行ったり、その時のことを覚えてないんだけど藤巻さんはまるでパリに住んでる気がしたって 後からよく言ってた(笑)

1995
仕事の途中に広尾でランチをしてた。
僕は93年に帰国し「アプレセイズタケシヤジマ」というメンズブランドを立ち上げてた。
「タケシさんご無沙汰してます!」大きな声と笑顔は昔のままの藤巻さんとの再会だった。
僕の本を買ってくれたり雑誌で僕の記事を見てるとか百連発でしゃべりまくってた。
藤巻さんも僕も連れが居て、深い話が出来なくて残念だったなあ。

2006
僕は高島屋のPBメンズブランドのデザイナーの傍ら、レディスブランドもやってて そのブランドの直営店から電話が入った、スタッフからあの声に突然変わって驚いたっけ「タケシさん、今タケシさんの店、何も知らないで入ってここはパリの店?デザイナーはフランス人?って聞いたらタケシさんって言うじゃないハッハッハッハッ!・・・」
そのあと連絡あって「あんなブランド大好き、あんなブランドやって欲しいんだけど・・」 そんなわけで仕事を一緒に始めることななった。

2009
僕の家で食事会、メンツは殆どが僕のショーに出てた男性モデル 「タケシさんキレイどころばっかりじゃない、それに今日はフレンチ?僕が一番弱いシチュエーションなんだけどワハハハハ」と豪快に笑ってたっけ。
「ごめんねタケシさんマナーは今日だけ許して、せめてパスタのキレイな食べ方位覚えて行くから」 「大丈夫、みんな僕がキッチンに入った時に急いで食べるマナー違反者ばかりだから」と僕。

2012
久しぶりに青山でランチをした。この日はパスタだった、すっかり昔のことは忘れてたのに藤巻さんは地雷を踏んじゃった(笑)。
「タケシさん ゴメン何年経っても無理 パスタをタケシさんみたいに食べるなんて出来ないよ」 「いいよ!そんなに汚くないし、それより美味しそうに藤巻さん食べるからそれが100点だよ(笑)」
ところでこの日も言ってくれた。「可愛いね 可愛いの着てるね!可愛いコーディネートだね」 いつもほめてくれる、会うたびにいつも だけど もう、二度と言ってくれないんだね 「タケシさん今日も可愛いファッション!」他の人にまで「ね、タケシさんオシャレでしょ!」って。

僕もそのうち そっちに行くからね、僕のセンスの理解者 藤巻さん二人で会社作ろうよ! それまで待ってて 沢山楽しい土産話貯めとくから。